そらつな篇
parco sakamoto × chiQ takeda
そらつな篇
さわ山の大福と香里鐘とマキコさんの家
にしか用のない街古町にはドトールコーヒーが在り
時間にはまだ早かったのでアイスコーヒーとミルクレープを注文すると
ガムシロップとミルクはこちらからお取りください
と促される
店内では
あの古きよき夢を、とカレンが歌っている
本を読む
後ろの席でジム帰りの中年女性が二人
鞄から菓子を出して相続税の話を始める
自動扉をニュルリとぬけて
鬼門に入る
用事があるのだから仕方がない
仕方がないから
シブシブに
と見せかけて
万代で鬼門入りした
本当は入りたくて仕方がないので入った
あの人の車内でかかっていた曲
ずっとかかっていたあの曲を
買って帰ろうとして
入れられているばかりでは芸がないので
私は鬼門に入ろうとする
入ろうとして入ったら夜の果てで
「・・・うわ
せっつなーーーァッ
ここにあのヒトがいるみたぁーーいッ‼︎!」
何万光年
離れたところ
きみとふたり
くちづけをした
思わずでそうなクシャミを止めて
私は咳に似たナニカをした
ハルコは21だった
年齢のことを言ってるわけではない
歳の話をすれば、ハルコは35だ
35とはいっても
実際のところ
それより若く見られることが多いようだ
煎餅屋で箱に詰めてほしいと申し出たら
帰省のできない学生に間違われたことがある
というか
ハルコという女は年齢不詳なのだ
と、ここで初めてハルコが女性であることが明らかにされたわけである
が、ハルコという名前からして
そんなことは最初から分かっている、などとアナタは安易に考えてはいけない
三本目の脚が生えているかもしれないのだから。
顔についていえば、十人並みというよりむしろ美人の部類に入るだろう
特徴的なのは、その大きな目で、睫毛が長く、クリッとした切長なのだ
勘違いしてはいけないのは、それがレンズの奥にあるということだ
罪つくりな女と言われたことも一度や二度ではない
ハルコは21だった
21とはハルコのような女のことを言うのだ。
二年前に書いた『日曜日にカゼをひく』と『アンチョビとキャベツ』の間の話が読みたい
という声を多数いただいたので
今回も「私」を主人公にした『彼女のことを、いっこだけ』というショートストーリーを書いてみました。
実際の私をご存知の方なら
あ〜・・・やっぱりね・・・
と薄笑いを浮かべながら一ミリのずれもなく同じことを仰るだろうと思うのだけれど
日常の私をそのまま描いてみました
恋におっこちるときもまああんな感じです
どんな感じなんだか
まあどんな感じでもよいのですが
武田地球はそれがすごくいいと言って
そう言ってくれる
私はそれがとてもいい
敬具
空き地の真ん中に、雪平鍋がおいてある。
内側が黒く、焦げついているようだ。
捨てられてしまったのだろうか。
今日は春のよい天気で、そんな鍋にも陽がさしている。
雨が降った日、まだ鍋がある。
すこしの水を湛えて、むかしを思いだしているのかもしれない。
空き地の真ん中、鍋はひとりで水を湛えている。
さあ、春といえばペンペン草だ。
鍋のまわりにたくさんのペンペン草が生えた。
ペンペン草はついつい風にそよいでいるが、
傍らで鍋は、まだじっとしている。
緑のトンネルを抜けたところに街がある
日よけ帽子を被ったおばあさんが
今日ワクチンを打ったのよ!と
花が咲いた時みたいに笑って話している
東京オリンピックの年に結婚をしたおばあさんは
おじいさんを去年亡くした
いっしょに東京オリンピックを見るのが最期の夢だったのに!と言いながら
それでもうれしそうに揺れている
会いたかった人に会いに行くの
そんな声が街のあちこちから聞こえるものだから
飛行機は大きな音を立てて飛んでいる
パン屋は美味しいパンを焼き
広場の清掃員はベンチをきれいに拭いている
こどもの蹴ったサッカーボールが目の前に転がってきたり
電線に並んだ鳥が一斉に飛び立ったりしている
この街の今日は、いくらかよい気分だ
何丁目の誰の家で患者がでたと噂が立ったこと
長く続いた老舗の料亭がひっそり店じまいをしたこと
職にあぶれた若者が部屋の中で動けなくなっていること
誰かが誰かにうつしてしまったのをずっと悔んでいること
そういうものを街の奥にぎゅっと抱えこんだまま
どうしたってどこかに向かって進んで行く
街のはずれには四つ角がある
カーブミラーはしずかに脈打ちながら
いつもと変わらず太陽の光を反射させている
なにもなかったように
カーテンをあけて
近所のコンビニまで
最後のおつかい
なにもなかったように
ゆっくりと回る
この
ほんのわずかな一瞬
偶然という名の日常
「ちきゅうさん、かぞえうたをしましょう」
ある日そんな風に声をかけられて、坂本パルコはきっと、春秋蜜柑のことを考えているのだろうなと思った。
それから二人でかぞえうたをやりとりして、案の定しばらくすると、テスト用のサイトに「蜜柑のかぞえうた」という作品が掲載されていた。
けれど自分の担当したところだけ、修正してある。やっぱりまたずるい。
しかも今回のサイトの更新では、蜜柑の写真のフリをして柿の写真を載せている。
あんな風にみえてこんな風にしている。坂本パルコは、いつも何食わぬ顔をしている。とても良いようにおもったりする。
とてもきれいね
月蝕は
あなたの好きなあんパンみたい
ところで最後の食事に何を食べたいか
私は何を食べるのだろう
考えあぐねて母親に訪ねたところ
天せいろ、大きなエビの天麩羅の
という日本人らしい答えが返ってきて
私はまだ考えあぐねている
それから新しい恋がしたい
抱えきれぬ恋心に這う這うの体
という設定でいこう、
これが案外ハマリ役。
決まりました
最後のひとつ前の食事は
ぽるくのチーズとんかつか
ナカタのハンバーグオムライスか
ヒカリモノ中心のお鮨に決めました
最後の食事はレモンパイがケースになければ抜きにします。
「色が白くていらっしゃるから」
実は大人になってからよく
同じようなことを言われるのだけれど
自分で色が白いと思ったことは実はない。
それにしてもこの認識の違いって自己評価の低さ
とかそういう詰まらない話に帰結する
のかもしれないけれど
自己評価が低かろうとそうでなかろうと
今の私は痛くもかゆくもないし
もう35年近く毎日見ているから良くわからん、
というのが正直なところ。
アホな話でした。
女は思い出したように
レモンパイを焼いた
なんとなくだ
いのちにはそれ以上の事情が表明されていない
ある朝
ネコの死体が市の指定の袋につめられて
ゴミ集積所に放ってある
半透明は丸みをうきあがらせ
どうやらいまだに生ぬくい
陽光に照らされているのは
何故なのだろう
遠くからみていた
オーブンの熱では
歓喜や悲哀はすこしも減らない
人生は短くて
たった数回パイを焼いたら必ず終わる
黙っていた
もうずっとずっと黙っていた
右手で不安の芽を刈り取っていると
左手が不安の種を蒔いてしまい、
途方に暮れている。
雨の日だった。
ビルが光っている。
信号で立ち止まる。
女は雨に
濡れてゆく髪を体を却って楽しみ、交差点で
よろけた。
酒気帯び。
すべてはただの風景
流れてゆくだけの風景
夏はピーマンを炒め
冬はニシンを焼く
ずぶ濡れた風景はやがて
誰かの道しるべとなった。
火曜日はとおい
「春秋蜜柑を作ってくれてありがとう」と伝える
「そんなこと言わなくていいのにー」と返ってくる
なんとなく手紙を送ってみたりする
もし坂本パルコがいるならば、あの街できっと受け取る
水曜日はさみしい
蜜柑のかぞえうたを公開したくないと、わたしは言った
そういう話を聞いているとき、
坂本パルコはどんな風にわらっているのだろうか
木曜日は愛しい
空がつながってるときいたから、それを疑わなくなった
すると世界のだいたいが、愛しくおもえる瞬間がある
金曜日はめんどう
神さまから坂本パルコをレンタルして、30日が過ぎた
こちらは雨が降っていて、返しに行くのがめんどうになってきた
人だから、わたしは神にも逆らう
土曜日はむずかしい
毎週、春秋蜜柑の更新をする
7日間で詩を書いたりするのは、わたしにはとてもむずかしい
日曜日はうれしい
坂本パルコがかわいいTシャツを着ている写真をみたので、かわいいと伝えると
つぎの日には同じTシャツが届く
坂本パルコにはそんな仕組みがある
届いたTシャツは黒いのに、坂本パルコが着ていたTシャツは白かった
わたしたちを隔てているものがあるから
NIIGATAからCHIBAに来るあいだにTシャツの色が変わった
そんなことをおもった
空がつながっているときいたから、きっとどこかに本当にあの街があって、
坂本パルコが暮らしている
遠く離れていても
とどいてしまうのは
心の中にも空があるから